こんばんは!
斎藤美奈子の「文庫解説ワンダーランド」(2017/1、岩波新書)その3でおしまい:第四章を紹介したいと思います。
第四章:教えて、現代文学
取り上げられている作品解説は、以下の作品について書かれたものです。
村上龍『限りなく透明に近いブルー』『半島を出よ』
戦争を描いた作品が六作品続きます。
竹山道雄『ビルマの竪琴』、壺井栄『二十四の瞳』、原民喜『夏の花』、野坂昭如『火垂るの墓』、妹尾河童『少年H』、百田尚樹『永遠の0』
この本では、既存の解説を俎上に載せて批判的に取り上げていますが、ほめている解説もあり、その中では原民喜の『夏の花』の解説について紹介したいと思います。集英社版『夏の花』を私は先日読んでいまして、作家のリービ英雄の解説は大変印象的でした。では、斎藤はどう書いているでしょうか。
斎藤が着目したのは、原爆投下の瞬間を描いた原民喜の以下の描写です。
「(原は便所で用を足していました)突然、私の頭上に一撃が加えられ、目の前に暗闇がすべり墜ちた。私は思わずうわあと喚き、頭に手をやって立上った。嵐のようなものの墜落する音のほかは真暗でなにもわからない。手探りで扉を開けると、縁側があった」
斎藤は、「この時点で『私』は何が起きたか把握していないのである」と書いています。何が起きたかわからないまま書いている、そういう記述の仕方はノンフィクションの描き方ではない。混乱を混乱のままに書いている。きわめて私小説的な描写です。私たちは『夏の花』が原爆小説だ、とわかって読んでいますから、これが原爆投下の瞬間の描写だと理解しますが、そういう理解がなければ、ひょっとしたら便所に殺人犯がいてハンマーか何かで殴られた?と読めるかも。すみません、私はミステリーファンなもので。
「ユダヤ人虐殺をめぐって確かに実際の記録やドキュメンタリーや回想文は山ほどあるが、考えてみると、その中からこれといった文学作品は生まれなかった」
「言葉に出来ないほどの無残さからは言葉の芸術である文学が生まれない。それはあまりにも当然なことではないか。そう考えつづけてきたぼくは、日本には『原爆文学』というものがある、とはじめて知ったとき、本当におどろいた」
この解説を読んだときには私も驚きました。原爆文学はあって当たり前でしょ、読んだもの。
リービは続けて書いています。
「このような文学が可能になったのは、『私小説という近代の伝統』『自然現象の中の私を書く』という近代日本文学の手法が働いているからである。」
ああ、そうか。
大田洋子の「屍の街」は、被爆した作者がその経験をほぼ私小説的に書きながらも、当時の報道や科学的見地を織り交ぜて書いたものでした。フィクションの結構を作ることなく大田は書きました。たぶん原民喜も。
記録でもフィクションでもない文学の在り方が「夏の花」にはあった。必ずしもフィクションとして成立していなくても読むべき作品として成立している、そういう作品群があるということを感じました。


お休みなさい。2025/9/24