「冬の子」

ジャック・ケッチャムの「冬の子」ジャック・ケッチャム短篇傑作選(金子浩訳、2025/2、扶桑社ミステリー文庫):ケッチャムの三冊の短篇集、Peaceable Kingom(2003)、Closing Time an Other Stories(2007)、Gorilla In My Room(2017)、から訳者が選んだ短篇19作が収録されています。気になった作品をいくつか紹介します。
 
「作品」:サスペンスとホラー小説の作家が殺し屋を雇います。彼女の不満は出版社が自分の本を充分な部数印刷してくれず、読者の手に届かないこと。自分の本を復刊させるために彼女は殺し屋を雇いました。さて、彼女は殺し屋に何を依頼するのか?
 
「聞いてくれ」:男がサラという名の娼婦を買い、「話を聞いてくれ」と頼みます。今日初めて会ったはずなのに男は彼女のことをよく知っています。彼女の育った家のこと、住所や庭にプールがあり、母親がプールサイドで読書する習慣があることも。そして8歳の彼女に会ったことがある、というのです。彼はあのときの性加害者だった。そのことを知った彼女の反撃は?
 
「未見」:コヴェンラントは「汚眠」という映画を観たいのですが、映画館に行ってもアクシデントに見舞われて観ることができない。ビデオで観ようとしてもビデオテープがデッキの中で絡まってしまい、やっぱり観られない。DVDプレーヤーを購入してなんとかして観ようとしますが・・・コヴェンラントはなぜ「汚眠」を観られないのでしょうか?
 
さて、私の今年の目標は二つ、年間100冊本を読むぞ、と積読本を減らすぞです。一つ目の目標については、九月末現在で84冊読み終わっていますので達成えきる見込みです。積読本の数は、先月末は85冊で今月末は 79冊、マイナス6冊という結果でした。
右の写真は、東京都目黒区の上目黒氷川神社です。
20260930

「出世と恋愛」その2でおしまい

斎藤美奈子の「出世と恋愛」(2023/6、講談社現代新書)その2でおしまい:本作の後半では、近代女性の恋愛について論じられています。取り上げられている作品のヒロインたちはいずれも行動的な女性たちで、「自ら当たって砕けている」という特徴があります。
有島武郎「或る女」
菊池寛「真珠夫人」
宮本百合子「伸子」
私自身が既読で面白かった「真珠夫人」について紹介したいと思います。男爵令嬢の瑠璃子には子爵の長男直也という恋人がいます。美男美女で家柄もいい理想的なカップルは成金荘田主催のパーティーで、成金には金以外の趣味はない、この庭も趣味が悪いし・・・なんてことを話していました。これをうっかり聞いてしまった荘田は二人に復讐を誓います。金の力に物を言わせ、瑠璃子を自らの妻にしようと画策します。妻を亡くした中年男の荘田にとって、若く美貌の瑠璃子は憎らしくもあったにせよ魅力的でもあったのでしょう。追い詰められた瑠璃子は荘田と結婚することにします。でもそれは荘田に復讐するための手段でした。この手段が凄い。絶対に荘田に体を許さない、という決意の元彼女は荘田の妻になります。復讐に燃えて嫁いだ瑠璃子でしたが、荘田の二人の子供たちには愛情を感じるようになり、荘田が愛情深い父親であることにも気がつきます。でも彼女の復讐という本懐は揺らがない。絶対に操は守るのだ。
その後事件が起こり、荘田は命を落とします。自分を金の力で追い込んだ荘田が根っからの悪人ではなく、自分や子供たちに愛情を抱いていたことを知った瑠璃子は当惑します。そして彼女の美貌や知性に魅了された男たちを集める瑠璃子サロンのヒロインとなり、誘惑するくせにやらせない妖婦となって男たちを翻弄するのです。
「男性は女性を弄んでよいもの、女性は男性を弄んでは悪いもの、そんな間違った男性本位の道徳に、妾(わたし)は一身を賭しても、反抗したいと思っていますの」、瑠璃子の復讐は私的なレベルを越えたのでした。
筆者は「父や夫や恋人の不埒な言動に忸怩たるものを感じていた女性読者は、溜飲を下げたにちがいない」と書いています。そうなんですよ。私自身は愛情を弄ぶ行為はいけないと思いますし、愛情には誠実でありたいと思いますが、瑠璃子の悪女ぶりが爽快なのは否めない。でもこの爽快感がどこから来たのかと考えると、結婚や貞操という「女性を型にはめる道具を逆手にとって、男たちと戦ったこと」という筆者の指摘は鋭いと思いました。
2026/9/29

「出世と恋愛」

斎藤美奈子の「出世と恋愛」(2023/6、講談社現代新書):副題は「近代文学で読む男と女」、帯には「人生の選択と恋の行方に迷う方、必読の書!」と書かれています。斎藤先生が恋愛指南?思わず買っちゃうじゃないですか。
本作は昔の若者の恋の話です。大きく前半と後半に分けられ、前半は男性側、後半は女性側からみた恋愛論になっています。取り上げられている作品は以下の通り。
 
夏目漱石「三四郎」
森鷗外「青年」
田山花袋「田舎教師」
武者小路実篤「友情」
島崎藤村「桜の実の熟する時」
細井和喜蔵「奴隷」
徳富蘆花「不如帰」
尾崎紅葉「金色夜叉」
伊藤左千夫「野菊の墓」
有島武郎「或る女」
菊池寛「真珠夫人」
宮本百合子「伸子」
 
青春小説の黄金パターンとして著者が挙げているのは
 
1 主人公は地方から上京してきた青年
2 彼は都会的な女性に魅了される
3 そして彼は何もできずに結局ふられる
 
そうか、「三四郎」ってそういう作品だったのか。九州から東京帝国大学に進学するために上京した三四郎は、自分には三つの世界があると考えます。
1 今や捨ててきた過去の世界である故郷
2 現在身を置いている知識人の世界
3 華やかな都会文化、恋愛の予感、これから身を置きたい世界
上京後出会ったムリめな女性美禰子に恋をした三四郎、結局 3の世界には近づけませんでした。
 
恋愛下手な近代日本男子の恋も成就するときがあります。でも彼女は若くして死んでしまう!このパターンの代表は「不如帰」、浪子は海軍少尉川島武男と結婚しラブラブな日々を送っていましたが、武男は仕事柄不在がち。肺結核を発症した浪子は姑により離縁されてしまいました。もう二度と、女になんか生まれはしない、と言って浪子は亡くなりました。この浪子の発言について著者は、親の勝手で離縁された制度への抗議とマザコン夫への不満だと述べていました。
 
伊藤左千夫の「野菊の墓」では政夫と民子の恋は成就しますが、政夫は進学のため故郷を離れます。政夫にとって民子は「今や捨ててきた過去の世界である故郷」になりつつありますが、他の男性と結婚した民子は流産をきっかけに体調を崩し亡くなります。著者は政夫を「木綿のハンカチ男」と評しています。あれですよ、「恋人よ 僕は旅立つ」で始まる名曲?「木綿のハンカチーフ」。別れを告げた恋人に、涙を拭くハンカチをくれ、というあの曲。自分で買ったらどうか、と思ってしまいます。というかティッシュで良くない?私は大嫌いなんですが(お好きな方、ごめんなさい)、この曲を男性側から見るとなんと「野菊の墓」に化けました。

2026/9/28

「バリ山行」書評講座

課題書は松永K三蔵の「バリ山行」(2024/7、講談社)です。外装修理を専門とする会社に勤める波多と妻鹿(めが)の、仕事と登山のお話です。会社は業績不振で不安定な状況にあり、波多は会社の未来に不安感を覚えていますが、妻鹿はマイペースで黙々と自分の仕事をするのみ、というスタンスを崩さない。妻鹿はベテラン登山家で、道なき道を行く「バリ」を単独で追求しています。波多は登山初心者ですが登山の魅力にはまり、妻鹿さんの「バリ」に興味を持つ。
いわゆる山岳小説というジャンルがあることを、私は今回初めて知りました。講師の斎藤先生は、このジャンルがお好きだそうで、新田次郎の「孤高の人」を推薦されていました。また、受講生のOさんが他の山岳小説、横山秀夫の「クライマーズ・ハイ」と比較して書評を書かれていたので、せめてこの2作は読もうと思って注文しました。
本作は山岳小説であると同時にお仕事小説でもあり、外装修繕の仕事の詳細もしっかり書かれている、という指摘がありました。作者の前作「カメオ」(2024/12、講談社)も、主人公の仕事内容に詳しく触れています。仕事小説という側面は今後も作者は継続するのかな、と思いました。
また、お父さんも「バリ」をやっていた、あるいは、自分も登山をやっていた、という話を書かれている方も複数見受けられ、波多たちが勤める会社の社名が「新田テック建装」であることは、新田次郎へのオマージュがあるのでは?という指摘もあり、なるほど、それは私にはわからなかった視点でした。以前、空手経験者に、私は会ったことはないけれど、空手家船越義珍が母の遠縁らしいと言ったらすごく食いつかれたことがあり、その道のカリスマへのリスペクトの強さに驚いたことがあります。まあ、あくまで遠縁に過ぎません。うっかりそんな話をして申し訳ありませんでした。
この作品の波多の夫婦関係、どうなの?という意見もありました。このお話は仕事と登山のお話ですから、妻の名前も示されていないぐらいです。でも、幼い子供を子育て中で保険会社でフルタイムで働く妻が家庭内の仕事を丸投げにされていることを指摘する意見もあり、波多の家庭人としての責任放棄について女性陣から糾弾の声があがりましたが、先生の講評は「小説(特に中短編)は一方的かつ身勝手でいいの。その後は読者ひとりひとりが考えればいいこと」と書かれていました。この講評は正しいと思います。私は、主人公が「カメオ」を山に捨てたことが許せなかったけれど、カメオがトイプーだったらよかったのに、闘犬のブルテリアという選択はどうなの、と思っていました。日本にはあまりいないブルテリア、飼うのが難しい犬種をあえて選んで書いたとしたら、作者の意図はそこにあると読むべきあったと思います。
さて、講座のあとの懇親会で、妻鹿の過酷な「バリ」に付き合った結果波多が肺炎になったら妻が子供を連れて実家に帰ってしまい、波多は一人自宅に取り残されました。波多は夫としてどうかな?と思うところもありますが、看病ぐらいはしてあげてもいいのでは、というのは同じく受講生の女性Kさんと意見が一致したところです。ほら、「健やかなるときも病めるときも」と考えれば、病めるときは停戦状態でもいいように思います。「健やかなるとき」にお話しましょうか。
右の写真は、川崎市多摩区の長尾山妙楽寺
2026/9/27

「隣の家の少女」その2でおしまい

ジャック・ケッチャムの「隣の家の少女」(金子浩訳、1998/7、扶桑社ミステリー文庫):語り手デイヴィッドの回想の形式で書かれた少年の日のある夏の思い出、とは言ってもそれは淡い初恋の思い出ではなく、14歳の隣家の少女が養母やその息子たちなど複数の人間による暴行・虐待の末に命を落とす物語です。
この話は実際に起きた事件、1965年のシルヴィア・ライケンス事件に着想を得たフィクションです。あくまで本作は小説ですが、実際の事件がベースにあることを思うとやりきれなさに苛まれます。読後感が最低最悪だという評判の本作、まあ評判通りだったかな。
デイヴィッドの隣家、シングルマザーのルースと三人の息子たちが暮らすチャンドラー家に、交通事故で両親を亡くした二人の少女が引き取られてきます。14歳の美少女メグとその妹スーザン、メグとスーザンも事故で負傷していますが、スーザンの方が重傷で補助具をつけてやっと歩ける程度にしかまだ回復していません。主にメグが暴行の被害を受けるようになりますが、その陰惨な内容に具体的に触れるのはやめておこうと思います。
メグにとって不運だったのは、彼女たち姉妹が夏休み中にチャンドラー家に引き取られたことです。学校、という毎日通わなければいけない社会にまだ属していなかったことが、事件の発覚を遅らせました。また、この姉妹がニューヨークからやってきたよそ者であり、知人がこの地にいなかったことも不利に働きました。この時代(1958年の話として描かれています)に児童虐待という概念が社会に浸透していなかったこともこの悲劇をもたらした要因の一つです。
メグは地下室に監禁されるようになる前に、警官に相談しています。警官にも児童虐待という概念はなく、ルースの行き過ぎた行為を、しつけの問題としかみていない。「いまは、ミズ・チャンドラーをママだと思わなきゃいけないんだ」という寝ぼけた忠告をする始末。メグのこの行為は、警官への告げ口だとチャンドラー家のメンバーに受け止められ、火に油を注ぐ結果となりました。
デイヴィッドは基本的に傍観者です。メグに加えられる暴行を知っていましたが、早急にまともな別の大人に訴えるべきだとまではなかなか思いつかない。ただ暴行が日増しにエスカレートする現状にさすがに危機感を抱いた彼は、メグを逃がそうと考え、ある夜実行します。でもここでメグは致命的なミスを犯します。スーザンも連れて逃げようとしたのです。この頃のメグは全身に暴行のあとがあり、このまま警察、あるいはどこか別の家に助けを求めればそのすさまじさに驚いた誰かが保護の必要性を感じたはずで、スーザンの救出も行われたはずでした。ああ、惜しい。
瀕死のメグを前にデイヴィッドは思う。メグはチャンドラー家の人々を自分と同じ人間だと思っていたからどこかでこの暴行は止まると思っていたのに、連中は同じ人間ではなかった、それが「メグがかかった罠」だったのだと。
巻末にはスティーヴン・キングの絶賛文も収録され、いかにキングがケッチャムを評価しているかがわかります。「傑出した才能と暗鬱なヴィジョンを備え強烈、きわまりなく、ときおりきらりとした閃きを感じさせる、この上なく興味深い作家である」。
ただ残酷なだけの作品ではありません。決して負けまいと必死に戦うメグは凛々しさを最期まで失わない。だからこそやりきれなさもさらにつのるとも言えますが・・・
右の写真は、横浜市都筑区の無量寺
2026/9/25

「名探偵ジェリコ」読書会

課題書は、「名探偵ジェリコ」(矢口誠訳、2026/8、文春文庫)です。ゲストは翻訳者の矢口先生と担当編集者のNさん。参加者が、ジェリコって名探偵なの?どうしてこういう邦題なの?(原題はKilling Jericho)と質問したら、Nさんは自分が決めた邦題であり、この作品を本格謎解きミステリーとして売りたかったという狙いがあり、この作品の真犯人がジェリコにそうなって欲しいという願望があること(すみません、ネタバレ気味かも)からこの邦題にした、と話されていました。矢口先生は、本作には続編があり、2作目、3作目がすでに本国で出版されていて、ジェリコが探偵として成長しており本当に名探偵になっていると話されていました。本作がアイディア一発で書ける部分があり、続編のできがいかなるものか心配しながら読んだけれど、作を重ねるごとに質が上がっているので感心したという話もされていました。私が矢口先生のお話で印象的だったのは、ミステリーを読むときは最後にびっくりしたいので、事前情報はできるだけ入れないし犯人当てもしないと話されていたことと、ミステリー作家が一番凄いと思っているというお話でした。風呂敷を広げるだけ広げて最後に見事にたたんでみせる力量に魅了されるそうで、私がミステリーを好きなのはそういうことだったのか、と教えられました。最近は日本の小説も読みますが、読んだ中で一番朝井リョウが好きなのは、広げてたたむ鮮やかさに惹かれたのか、と思ったりもしました。ミステリーではない作品えすが、「イン・ザ・メガチャーチ」では、視点人物3人が最後に終結する鮮やかさに惚れ惚れしましたから。
でも、矢口先生の面白さにはさらに先がありました。村上春樹は風呂敷を広げるだけ広げてたたまない。「海辺のカフカ」なんて全然たたまない、というお話しだったので嫌いなのかと思ったら、日本語の表現として特に語尾の表現は素晴らしいと絶賛されていましたし、俺は春樹のファンなのだそうです。

右の写真は、横浜市都筑区の文殊様のお寺東漸寺。

2026/9/24

「名探偵ジェリコ」

イギリスの作家ウィリアム・ハッセーの「名探偵ジェリコ」(矢口誠訳、2026/8、文春文庫):ハッセーの初翻訳作品。この作品はマイノリティと排外主義が副旋律になっているミステリーです。主人公のジェリコは、ゲイで忘れられない恋人はもちろん男性。白人だから人種的なマイノリティえはないけれど、トラベラーの出身です。日本の遊園地は定住型が主ですので移動遊園地ってぴんとこないのですが、イギリスでは移動遊園地は珍しくないそうですが、その従事者はトラヴェラーとしてある種の差別はあるそうです。定住しないため継続的な教育を受けることが難しい。これはかなり厳しいハンデではないかと思います。
ジェリコは頭がよく名門大学に進学しますが、トラヴェラー出身であることを時に触れ話題にされるし、ジェリコ自身も文学を批判するよりも耽溺する傾向にあることが大学生活に適さず、結局退学します。
それでもその頭の良さを買ったピート・ギャリスに誘われて警察官になりました。優秀な検挙率を誇ったジェリコですが、ポーランド人移民の子供達が焼き殺された事件できれてしまいます。犯人に暴行してしまい、裁判で犯人は無罪判決を得、ジェリコは刑務所行きに。元警察官の受刑者は刑務所では非負い目に遭うという話はよく読んでいますし、映画でも観ていますが、ジェリコもそうだったみたいです。出所後はもともといたトラヴェラーの世界に戻りますが、いったん出ていったいわば出戻りのジェリコはあまり歓迎されてはいない。
ジェリコの欠点は共感力が高く、怒りを抑えられないこと。焼き殺された子供達の幽霊が見える。それが原因で薬物依存に陥っていています。出所しても生ける屍状態。
そんな彼に怪しい依頼が。150年前のトラヴェラーが橋の崩落で命を落とした事件。
日本でも見世物小屋ってありましたね。障害者を見世物にする興行。映画「エレファント・マン」もそうでした。150年前の橋の事故で命を落としたのはそういう人々。その犠牲者たちに見立てた連続殺人事件が起きている。第一の被害者は「犬顔少年」に、第二の被害者は「電気女」に、第三の被害者は「肥満女」に見立てて殺されている。殺人のテーマは150年前の橋崩落事件らしいけれど、被害者たちにつながりはない。
ジェリコは覚醒する。移民排斥運動が高まるなか、かつてのポーランドの移民の子供達を焼き殺した男、レニー・ケリガンはレイシスト運動の扇動者として現れ、ジェリコを挑発する。橋の事件を見立てた連続殺人事件だとすれば、まだ二人犠牲者が出る可能性を示している。防がなくては。
でも捜査の過程で昔の最愛の恋人ハリーと再会する。彼はあいかわらず優しく、ジェリコはこのタイミングで再会したことに作為を感じないわけではないですが、ハリーを信じたい。
本国ではもう第3作まで出版されているシリーズ物の翻訳です。そう考えると、ジェリコの背景もじっくり書き込みながら、真犯人がこの人だという結末も納得できるかも。

右の写真は、川崎市高津区の身代り不動尊大明王院川崎本山

2026/9/22