こんばんは!
今日も原民喜の「夏の花」なんですが、解説が面白かったのと、同時に読んだ大田洋子の「屍の街」との比較を書いてみたいと思ったのと、まあそういう動機です。
原民喜が小説家であると同時に詩人であったこと、そういう資質がこの作品を国民的な原爆小説にしたのだと思いました。語られる現実の厳しさ、悲惨さは言うまでもありませんが、心、あるいは情緒に訴える力が強い。「夏の花」3部作の最後を飾る「廃墟から」の末尾は、「広島では誰かが絶えず、今でも人を捜し出そうとしているのでした」という一文で終わっています。たぶんもう会えない人を探しているあまたの人々。たぶん悲惨な最期を迎えるしかなかった人々、生きていてもいずれ原爆症に侵されて苦難に満ちた人生を送るかもしれない人々、もし再会できても変わり果てた被爆者の現実に無力感を覚えるだけかもしれない。そいうことを、この平易な一文は暗示しています。
この作品の解説は、リービ英雄さんという方が書いています。筆者によるとナチスドイツのユダヤ人虐殺を取り上げた文学作品はないそうです。私が知っているユダヤ人迫害については、古くは「アンネの日記」、映画で言えば「ソフィーの選択」「シンドラーのリスト」が思い浮かびます。「ソフィーの選択」は、メリル・ストリープの鬼気迫る演技が素晴らしい映画でしたが、どちらかというとその時の経験が戦後の彼らの心に落した影を描いているように思いますし、「シンドラーのリスト」はノンフィクションです。
「言葉にできないほどの無残さからは言葉の芸術である文学が生まれない。それはあまりにも当然なことではないか。そう考え続けたぼくは、日本には『原爆文学』というものがある、とはじめて知ったとき、本当におどろいた」
それほどの災厄であった原爆に対してあくまで科学の知見もまじえて正体に迫ろうとした大田洋子、目の前の悲劇を心で描いた原民喜、どちらも読むべき作品でした。


お休みなさい。2025/08/26