デニス・ルヘインの「あなたを愛してから」:原題はSince We Fellです。35歳のレイチェルが夫を撃ち殺すところからこの物語は始まります。でも話はそこから過去に、彼女の生い立ちに、母と父の話に遡ります。母親のエリザベスについてルヘインはこう書いています。「他人の問題の分析には並外れた手腕を発揮しながら、自己診断となると途方に暮れる人」。父親はレイチェルが幼いころに家を出てそれっきり、名前がジェイムズで、大学の先生だったことくらいしかわかりません。父親についてそれ以上のことを語らぬまま、母は交通事故で亡くなり、レイチェルは父親捜しを始めました。その過程で私立探偵のブライアン・ドラクロワと出会いますが、彼はざっと調べただけでも関係がありそうなジェイムズという人は73人いる、と言って諦めることを勧めます。ジェイムズって平凡な名前なんでしょうね。でも彼女は探し続け、ジェレミー・ジェイムズという人物に行き当たります。ジェイムズ、ラストネームだったのか!この顛末は、本作をお読みください。この人についてエリザベスは日記に「ジェイムズはわたしたちに向いていなかった。わたしたちも彼に向いていなかった」と書いていて、私はこのフレーズが気になりました。ある人と一緒にいたいと願っても、向いてないってことはあるかもしれません。だから離れるしかない。たとえそれが不本意であっても。
レイチェルは大学院卒業後新聞記者になり、彼女の書いた記事を読んだブライアン・ドラクロワから激励のメールが来ます。彼はもう探偵業を廃業して家族の材木業に携わっています。その後レイチェルはテレビ局の仕事に移り、プロデューサーのセバスチャンと結婚し、順調な生活ぶりに思えましたが、学生時代から悩まされていたパニック障害の発作が彼女のキャリアを奪います。ハイチを襲った大地震の現地取材に赴いたレイチェルは、生中継中に発作を起こし、解雇されました。セバスチャンとの結婚生活も暗礁に乗り上げます。そんな中ブライアンからメールが来ます。「人間的でないものに囲まれたときに人間的だったことで罰を受けるいわれはない」、そう彼女がハイチで経験した出来事はまさに非人道的なものでした。なぜブライアンにはわかるのだろう?なぜ彼だけが・・・
墓参に行った彼女は父の墓の前で父親の声を聞きます。「誰かに理由を教えてもらいたいんだろう?なぜ痛みと喪失があるのか。なぜ地震と飢餓があるのか。だが、おまえがいちばん聞きたいのは・・・・なぜ誰もおまえのことを気にかけないのかだ」
セバスチャンと離婚したレイチェルは、その後ブライアンと再婚しますが、その時の彼女は自宅から出ることもできない状況でした。ブライアンは精神的に不安定な彼女を支えます。そして結婚後もうすぐ2周年というところでブライアンは彼女を人込みに連れ出すことに成功します。いい夫ですよね。どうしてこの人をレイチェルは撃ち殺すことになったのだろう?冒頭の殺害シーンに戻るのは物語が残り1/3を切ろうか、というところです。そこからは怒涛の展開が待っています。
レイチェルの心の旅を読者も共に歩む。彼女の孤独と生きづらさを見つめながら、彼女の軌跡を辿ってゆく。ルヘインが初めて書いた女性の一視点の物語であり、彼は一人の女性の人生の戦いを豊饒な筆致で描き切りました 。
では、ラストの部分で語られる彼女の言葉の一部を引用して終わろうと思います。
「これがどう終わるのかわからない。彼女は闇に言った。これのどこがわたしの居場所なのかわからない」
この疑問の答えは?物語の最後の一文が彼女の出した答でした。
お休みなさい。2024/7/4